その後 皇后らは、大津皇子をかわいがっていた天武天皇の崩御を
好機と、崩御の翌月 686年10月2日に大津を逮捕、
翌3日に 「謀反の罪」で死を命じました。
大津皇子 24歳。
二上山の西側、
大阪府太子町の方から見る朝の二上山は
所々雲の切れ間から朝日を浴びて、その姿は神々しいばかりです。
桜ふぶき舞う中 二上山の麓の道を走るとき、
色づく広葉樹で錦のような二上山を眺めるとき、
優しく趣深いさまに 心が奪われてしまいます。
夕刻、二上山の東側 奈良県香芝市の方から山を見ると、
沈みゆく夕日を背に二上山は
くっきりとシルエットを浮かび上がらせています。
この山のどこかに大津皇子が眠っておられるからでしょうか。
その様子はとても気高く感じます。
大津皇子は 最期の時も迎えた幼い頃からの住まい、
譯語田の舎(おさだのいえ)からこの二上山をどのように見て
育たれたのでしょうか。
大阪と奈良の境界にある 秀麗な山容の山。
その美しさから、香芝だけでなく奈良をPRするポスターにも
数多く登場します。
夕日の名山としても知られ、山の後ろに日が沈む際の
神秘な様から、二上山は万葉の昔より 西方浄土の入り口と
考えられて信仰を集めていました。
古くからの呼び名「ふたかみやま」は「二神山」に通じること、
雄岳山頂に大津皇子が改葬されたことは、
このことと無関係でないとされています。
万葉集以後も数々の歌に詠まれ、古代史に彩られた山です。
二上山・屯鶴峰(どんづるぼう)~葛城山~金剛山~岩湧山~
槙尾山まで結ぶ45kmの自然歩道は、大阪・奈良・和歌山をまたぐ
「ダイヤモンドトレイル」と呼ばれ、週末は山歩きを楽しむ方々で
にぎわっています。
二上山は奈良盆地の西部にある山の中でも
その山容と歴史から、多くの人々に親しまれた山です。
『五言。臨終。一絶。』
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕向離家
金烏(太陽)はすでに傾いて
西の家を照らし、
時を告げる鼓の音は、死を目前にした
短い命を 急き立てる様に聞こえてくる。
死出の旅路には、お客も主人もなく
ただ一人。
この夕べ自分の家を離れ、さびしく
黄泉の旅へ向かわなければならない
万葉歌人。天武天皇(大海人皇子)の第3皇子。
母は 大田皇女(おおたのひめみこ 天智天皇の長女)。
同母姉に 大伯皇女(おおくのひめみこ)。
母の大田皇女は 大伯7歳、大津5歳のときに他界。
後ろ盾をなくした 幼い姉弟は、絆深く庇いあって育った
そうです。
大津皇子は 容姿端麗で文武にすぐれ、
日本書紀に「詩賦の興り 大津より 始まれり」とあるほど
博識で詩歌の才能に恵まれていました。
心が広く、民衆からの人気も絶大。
父からの信頼も厚く、平凡な兄 草壁皇子(くさかべのみこ)に
比べ、誰もが 後継者にと望んでいたのも当然かもしれません。
しかし大海人皇子の王妃は大田皇女の死後、草壁の母
菟野讃良皇女(うのさららのひめみこ:草壁の死後 持統天皇として
即位)に代わりました。王妃の位を手にした菟野皇后は
これまで以上に 息子草壁を皇太子、ゆくゆくは天皇にしたいと
執心するようになったと聞きます。
大津皇子は権力を手にするための、自身の出世には興味のなかった
人物でしたが、彼と彼を推す世論を恐れる皇后は大津を妬み憎み、
草壁が立太子した後も彼の存在を恐れたようです。
菟野皇后は側近と画策し、まず大津の姉 大伯皇女を伊勢神宮の
斎王に任命しました。
これは 仲のよい姉弟を引き離すだけでなく、大伯を一生独身を
貫かねばならない役職につけることで、将来においても
大津に姉婿という後ろ盾がつかない様にする目的がありました。
短い秋の陽はすでに西に傾き、
二上山のかなたに沈みゆこうとしていた。
春秋社 山路麻芸著 「白鳳の絶唱」より
大津皇子の「謀反」は、菟野皇后ら草壁皇子擁立派の謀略と
いう説が通説です。
「どのみち 殺されてしまう運命なのだから、『謀反』にのって
自分ひとりだけが罪をかぶる。国に無益な騒乱を起こしたくない」
大津皇子は自らの死を受け入れ、身近な人々や民衆、
彼らが守り 生活する家や土地を争いの巻き添えにならないように
されました。
大津皇子の亡骸は殉死した妃 山辺皇女の亡骸とともに、
彼らを慕う民衆によって埋葬されました。
皇后は殯もせず、放置するように命じたと歴史書は伝えます。
「反逆者」とされたのだから 記録が少ないのも当然かも
しれませんが、事件を記した日本書紀にすら墓所についての
記述はいっさいありません。
姉 大伯皇女の
「うつそみの 人なる吾や 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む」
この世に残されて生きる私は、明日から二上山のふたつ並んだ
山を 姉、弟と眺めて生きてゆきましょう
という歌から、大津皇子の亡骸は二上山に改葬されたと推測されて
いるのです。
百(もも)伝ふ 磐余(いわれ)の池に
鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
磐余の池で鳴いている鴨を見るのも
今日限り‥
私はもうこの世にはいられないのです‥
懐風藻に収められた
「絶唱」の碑。
改葬は、大津皇子の死後
全国で相次いで起こる 奇妙な出来事と
民衆の不安を解決するために
行われたといわれています。
死後も変わらず、民衆に慕われている
大津皇子の墓を二上山につくって、
「大和の守り」にしたのです。
草壁皇子は 大津皇子の死から3年後、
皇位につくことなく亡くなりました。
大伯皇女は 大津皇子の死後まもなく
斎王の任を解かれ都に戻り、
15年後の701年に41歳でお亡くなりに
なりました。
現在 二上山雄岳の山頂に
「天武天皇皇子 大津皇子 二上山墓 宮内庁」
との板札がかかった墓所があります。
あまりに聡明で勇敢だったために、
異母兄一派の謀略で謀反の罪をきせられた
大津皇子のお墓とされています。
「吉備池」が「磐余池」との説もあります。
譯語田の舎から見る二上山や夕焼け雲はこの様な感じだったの
ではないでしょうか。 -吉備池堤にて
うつそみの 人なる吾や 明日よりは
二上山を 弟背(いろせ)と我(あ)が見む
-巻2 165
紀路にこそ 妹山ありといへ 玉櫛笥 二上山も 妹こそありつれ
-巻7 1098
大坂を 我が越え来れば 二上に 黄(もみち)葉流る 時雨降りつつ
-巻10 2185
二上に 隠らふ月の 惜しけども 妹が手本を 離るるこのころ
-巻11 2668
【交通】近鉄南大坂線
二上山駅から徒歩約2時間
二上神社駅から徒歩約1時間30分