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大阪・奈良の境界をなす二上山の麓、穴虫峠と竹内峠を通る二本の街道は、万葉時代からの主要道路であり、遣隋使もこの道を通ったとされています。
香芝は古くから 大阪と奈良を結ぶ要所であったようです。
二上山の豊かな自然に抱かれた市内には、狐井城山古墳(6C初 葛城氏の墓?)、平野塚穴山古墳(国指定文化財・敏達天皇の孫 茅渟王 ちぬおう の墓)などの古墳群、二上山雄岳山頂の大津皇子の墓・武烈天皇陵や顕宗天皇陵などの陵墓をはじめ、古代史の舞台に出てくる史跡・文化財が多く存在します。
県指定の天然記念物 屯鶴峰(どんづるぼう)は、約2000万年前の二上山の噴火により、火山灰や火山砂が堆積してできた山肌の白い珍しい山です。松林の緑の中、鶴が屯(たむろ)しているように見えるのでこの名前が付いたそうです。
地質・植物生態を研究するのにも重要な地域とされています。
近畿各地で発掘されている石器のほとんどが、二上山系の「サヌカイト」をはじめとする火山岩で造られたと推定され、香芝は石器文化の中心でもありました。
日本初、旧石器時代を専門に紹介するユニークな博物館「二上山博物館」や、平安時代 恵心僧都源信がお生まれになった「阿日寺(ぽっくりさん)」なども有名です。
二上山の麓に広がり、その雄大な二峰の姿を真正面にのぞむことが出来る一帯は、歴史・文化の発祥地として知られています。
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二上山の石切場
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屯鶴峯
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鹿島明神のお告げで、香芝市内の下田に鹿島神社を建て居住した、鎌田藤原次郎政光(この方のお父さま政清は源義朝に仕え、平治の乱で討死されたそう)に由来するそうです。
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・楢崎正剛さん(サッカー)
・吹石一恵さん(女優)
・山本貴司さん&千葉すずさんご夫妻(水泳)
二上山の西側、大阪府太子町の方から見る朝の二上山は
所々雲の切れ間から朝日を浴びて、その姿は神々しいばかりです。
桜ふぶき舞う中 二上山の麓の道を走るとき、
色づく広葉樹で錦のような二上山を眺めるとき、
優しく趣深いさまに 心が奪われてしまいます。
夕刻、二上山の東側 奈良県香芝市の方から山を見ると、
沈みゆく夕日を背に二上山は、くっきりとシルエットを浮かび上がらせています。
この山のどこかに大津皇子が眠っておられるからでしょうか。
その様子はとても気高く感じます。
大阪と奈良の境界にある 秀麗な山容の山。
その美しさから、香芝だけでなく奈良をPRするポスターにも数多く登場します。
夕日の名山としても知られ、山の後ろに日が沈む際の神秘な様から、二上山は万葉の昔より 西方浄土の入り口と考えられて信仰を集めていました。
古くからの呼び名「ふたかみやま」は「二神山」に通じること、雄岳山頂に大津皇子が改葬されたことは、このことと無関係でないとされています。
万葉集以後も数々の歌に詠まれ、古代史に彩られた山です。
二上山・屯鶴峰(どんづるぼう)~葛城山~金剛山~岩湧山~槙尾山まで結ぶ45kmの自然歩道は、大阪・奈良・和歌山をまたぐ「ダイヤモンドトレイル」と呼ばれ、週末は山歩きを楽しむ方々でにぎわっています。
二上山は奈良盆地の西部にある山の中でも、その山容と歴史から、多くの人々に親しまれた山です。
万葉歌人。天武天皇(大海人皇子)の第3皇子。
母は 大田皇女(おおたのひめみこ 天智天皇の長女)。同母姉に 大伯皇女(おおくのひめみこ)。母の大田皇女は 大伯7歳、大津5歳のときに他界。
大津皇子は 容姿端麗で文武にすぐれ、日本書紀に「詩賦の興り 大津より 始まれり」とあるほど、博識で詩歌の才能に恵まれていました。父からの信頼も厚く、平凡な兄 草壁皇子(くさかべのみこ)に比べ、誰もが 後継者にと望んでいたのも当然かもしれません。
しかし大海人皇子の王妃は大田皇女の死後、草壁の母菟野讃良皇女(うのさららのひめみこ:草壁の死後 持統天皇として即位)に代わりました。王妃の位を手にした菟野皇后はこれまで以上に息子草壁を皇太子、ゆくゆくは天皇にしたいと執心するようになったと聞きます。
大津皇子は権力を手にするための、自身の出世には興味のなかった人物でしたが、彼と彼を推す世論を恐れる皇后は大津を妬み憎み、草壁が立太子した後も彼の存在を恐れたようです。
菟野皇后は側近と画策し、まず大津の姉 大伯皇女を伊勢神宮の斎王に任命しました。これは、仲のよい姉弟を引き離すだけでなく、大伯を一生独身を貫かねばならない役職につけることで、将来においても大津に姉婿という後ろ盾がつかない様にする目的がありました。
その後 皇后らは、大津皇子をかわいがっていた天武天皇の崩御を好機と、崩御の翌月 686年10月2日に大津を逮捕、翌3日に 「謀反の罪」で死を命じました。大津皇子 24歳。
大津皇子の「謀反」は、菟野皇后ら草壁皇子擁立派の謀略という説が通説です。
「どのみち 殺されてしまう運命なのだから、『謀反』にのって自分ひとりだけが罪をかぶる。国に無益な騒乱を起こしたくない」
大津皇子は自らの死を受け入れ、身近な人々や民衆、彼らが守り 生活する家や土地を争いの巻き添えにならないようにされました。
大津皇子の亡骸は殉死した妃 山辺皇女の亡骸とともに、彼らを慕う民衆によって埋葬されました。皇后は殯もせず、放置するように命じたと歴史書は伝えます。
事件を記した日本書紀にすら墓所についての記述はいっさいありません。
姉 大伯皇女の、
「うつそみの 人なる吾や 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む」
この世に残されて生きる私は、明日から二上山のふたつ並んだ山を 姉、弟と眺めて生きてゆきましょう
という歌から、大津皇子の亡骸は二上山に改葬されたと推測されているのです。
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二上山の大津皇子の墓